御朱印
元号がかわり、いや、
日々の生活は何も変わらない。
平成が終わる少し前に、西国三十三箇所を巡り、
御朱印と、掛け軸、御詠歌を頂いた。
納経は三十三枚にはまだ至らず。
人だから、字にも個性はある。
田舎のお寺の住職さんなんかはとても親切だった。
御朱印ばかり書いて、腱鞘炎でしばらく休んで復帰した、まだ痛む、というお話もあった。
日本の昔話に、和尚に字を書いて欲しい農夫が、たかだか筆を走らせる時間なんぞ知れとる、なんで書いてくれん?
ある日、蔵に連れていかれたら、其処には沢山の書が積み上がっていた、和尚がこれまで練習した書が積み上がっていた。
農夫はそれを見てはっとして、自然薯を沢山掘ってお供えした。
和尚は字を書いてくれた。
そんな話があった。
目に見えないものを信仰する、
そもそも宗教とは、なんなのか。
今、そんなことを見聞しているが、
人が、ヒト、となった時点で、
神も、仏も、自然も、切り離され、
ヒトは、益々、迷走し、
書に宿る、何か、も、
歌に宿る、何か、も、
あるいは、自分の身体すら、
認識できず、
御朱印に対する態度を見ていると、
生きる、生きている、こと自体が
希薄すぎるように感じた。
皆がそうではないが。
ノートルダム大聖堂が火災となり、
その意識下にある人々の思いと、
永遠性を見た時に、
日本の気候は、骨も風化され、
建築は木造で、神社も定期的建て替えられている、
語彙力がなく、説明がうまくできないけれど、
流れ行くからこそ美しい、と感じる心もあり、
文化もあり。
今、御朱印が貰えないなら、また来ればいいんじゃないか?
自分が、其処に行くまでの道のりで、
何を感じて、何故行こうと思ったのか、
神様とのご縁は、人とのご縁と同じ。
とりとめもなく、
長い文章になってしまったが、
何も信仰していないなら、
自分で書道を習って、書けばいい。